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今年初のマタイ受難曲(後半)

バッハ:マタイ受難曲
バッハ:マタイ受難曲
↓こちらは輸入版

St Matthew Passion (Bril)
St Matthew Passion (Bril)


さて後半。
シャイー&ゲヴァントハウスオケのマタイ受難曲では、前半のペースを落とさずに、ドラマ運びは軽快で勢いそのまま。

マタイ受難曲の後半はさまざまなドラマが盛り込まれています。
冒頭のペトロとユダの話も鮮やかに描かれていました。

民衆に紛れ込んで成りゆきを息を潜め見つめていたペトロ。
周囲に「あんた、イエスと一緒にいた人でしょ」と問い詰められ結局3回もそれを否認してしまう様子は迫力ありました。
糾弾されて精神的に追い詰められ、「俺はしらないんだ、知らないって言っているだろう」(意訳)と最後は激昂して答えるペトロの感情の高まりと無情にも聴こえてきた鶏の鳴声。
Chum(*ドイツ語ではクゥムさんと発音するのだとご教示いただきました。S様ありがとうございました。感激です)さんの間の取り方、歌には脱帽です。
へなへなと膝の力が抜けて地面に座り込み そして激しく泣きじゃくる姿が目に浮かびました。

一度はユダの手に渡った大枚の銀貨。
イエスが実際捕縛され、死刑が逃れられないと悟ると、自分の犯した罪に絶望して神殿に放り込んだ銀貨。
神殿の床に銀貨が跳ね返ってころころと転がる情景。
あらあらしいヴァイオリンソロの音色。あれれ、フンケさんのヴァイオリンじゃないのね。
そこには死してもなお、イエスをかえしてくれとコドモのように慟哭するユダの姿が。

茶番のような裁判はそれでも緊迫の瞬間の連続。
底意地悪い尋問に対するイエスの言葉「Du sagests」
感情も何も無い乾燥しきった小さな声。
マタイ受難曲での後半部、イエスの言葉らしい言葉はこれだけなのです。
前半では弟子たちや民衆の中にいて、とても近くにいたイエスの姿。
後半では、その姿を見ることはできても、その話す言葉も、表情も読み取る事のできない手の届かないところにいるのだと気づかされます。

ドラマ部分のアリアやレスタシーボの生々しいドラマとは対比的なのがコラール。
後半でも小気味良いテンポではありますが、前半に比べて重く抑え目。
まるで聞いている人たちの心情を映すかのような秘めやかな印象です。
内省的で翳りのあるコラール。

うめき声のようなコラールを歌っていたトマーナとテルツの合唱は、民衆のシーンになると激しい。
トランス状態に陥ったとしか思えない民衆は 聞いていると腹がたつくらい憎憎しく、そこで、選ぶのはバラバじゃないでしょう、「十字架を!!」と叫ぶ呪いのような合唱に、ああ、もうっつ、違うでしょ、ヴァカヴァカ・・と我を忘れて突っ込みまくるという具合の迫真さにあふれていました。
十字架をと叫ぶ民衆の声がスタジアムのなかから聞こえる地響きのようなうねりのようで不気味です。

あとになって思い返せば、イエスを救うことができるチャンスがいくつもあったのに、その道を閉ざし、十字架へと進ませたのは他の誰でもない民衆、つまり私ら人間。
聴いている後世の私たちはそうじゃないんだと登場する民衆や司祭たちにおおきく憤りながらも、でももしかしたら 自分も実際にはあの民衆の中のひとりで、意味もわからずイエスを糾弾し バラバを釈放しろ、イエスに十字架をと叫び、ときにツバをはきかけ、暴力を重ねていたのかもしれないと思い当たると愕然とし コラールが苦く、沈うつなものに聴こえるのかもしれないです。
あそこで明るく清らかにコラールが登場したら、流れぶったぎりになるか。

エヴァンゲリストのJeus laut und spracheと最後の言葉を導く声は情感たっぷり、そして
最後の言葉を解説する言葉が切ない。Chumさんの61曲目は涙なしには聴けない。
イエス絶命を告げる laut und verscied と長いルフトパウゼ。
ああ、すべてが終わってしまった・・と誰もが悟る瞬間はマタイ受難曲のコアの部分と思います。
もっとも重要で緊迫する瞬間です。

あの、よろしいでしょうか。
この「間」には個人的につらい思い出が。

初マタイコンサートだったクロイツコア。
ずっと鼻の調子の悪かった隣のおっさんが、まさにココでずるっと勢いよく大きな音で洟をすすりました。
翌年のトマーナのコンサでは帰りの時間を気にしたのか客席のオバチャンがここで席をたち、足音をかつんかつんとコンサートホールいっぱいに響かせ出口に向かっていきました。
舞台上のトマーナボーイズが?という表情でオバサンの後ろ姿を見送っていた姿忘れられません。
だいなし・・いろんな意味で泣きたくなりました。
あ、いかんワタシも流れをぶったぎってしもうた。

そして続く62曲目のコラール。
色彩感に乏しく苦くて重い。
地の底をはうような重苦しさです。

仕事柄、いろんな方の臨終に立ち会ってきました。
マタイを聴くようになってから、そのようなときにお部屋にはたくさんのひとがいるのになぜか、心の片隅でいつもこのコラールのことを思います・・・なんでかな。

激しい天変地異の音楽のあと、63曲目の後半に現れる「この方は神の子だった」とつぶやくような合唱は短く、相変わらず早めのテンポなのですが、そのためかかえって煌くように美しい。光が差し込むような印象。

そして65曲目のバスのアリアで、十字架から下ろされたイエスの亡骸に近づき、接する人々の様子が目に浮かびました。
そのなかにはもちろん弟子たち、聖母マリア、様々な人々が歎き悲しみながら 埋葬の準備をする人、歎き悲しむ人々にそっと寄り添う人がいるのでしょう。イエスの亡骸を中心に繰り広げられる人間たちのさまざまなドラマを遠くから暖かく見つめるように聴こえるアリアには泣けました。
ソロを歌うバスとオケの音色が明るくて温かみがありじいん。

67曲目の合唱、meine jesu gute, nacht のボーイズの声はたおやかで慰めを感じます。
物語の終わりを告げる終曲での合唱とオケの厚みは圧巻、ラストの和音が消えていき受難の物語がようやく終わりました。

はああ~聴いちゃったよぉ脱力。

鮮やかにそしてドラマティックに描かれているマタイ受難曲は、オペラのCDを聴いているようでした。
合唱やソリスト、オケが一体となったのキレのあるバッハはダイナミックで迫力満点。
バッハの音楽のなかで語られている物語にすんなんり入り込めすぎて、後半を邦訳と照らし合わせながら聞いてみたら、あまりのむごたらしさに吐きそうになりました。

20世紀の名演音源、慎み深い懊悩にあふれた、または知性的で禁欲的なマタイ受難曲に縛られがちな私たちからすると、シャイーのマタイ受難曲はワイルドで斬新過ぎて、好みが分かれるかもなぁとシロウトながらにも思います。


でもね。
デッカさん。
肝心の音質が余りよくないですよ。
いそいでプレスしたのかな?
どうしちゃったのですか?
とくにDisc2は要注意。
ホワイトノイズが若干耳障りだし、ワタシの初代disc2なんて64曲目から激しく音飛びして、CDプレーヤーのディスプレイにはerrorの文字がでてましたよ。(怨)
あわててDiscをクリーニングして再生してもまったく効果なし。
どのお店で買ったか記憶にないので返品もできず、で結局まるまる買いなおししましたです。
ああ、もう でっかさあああああん。

皆様、購入されたら早めに聴いて、まずdiscをチェックすることをオススメします。
録音日のデータやソリスト紹介も一切ないライナーノーツは不満。
あ、でもビラー先生とシュミットガーデン先生と、シャイー先生のスリーショットはグッジョブだし、唯一のフルカラー写真、舞台上で喝采を浴びるステージ写真はなかなかいいわ。



ああ、また読みにくい記事になってしもうた。
すみません。


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